オノレ日記帳

2005年5月の記録



  貴乃花の逝去
Date: 2005-05-31 (火)

 元大関・貴乃花が逝去。口腔底癌だという。
まだ55歳だというから若いよな。
 オノレは子供の頃から大相撲ファンであった。
最初に好きになったのが千代ノ山。
筋肉質で突っ張り相撲一本の横綱だった。
自分の体が大きくないせいか、
小兵や痩身な相撲取りばかり応援していた。
 その昔、キリギリスのようにノッポで、
キリギリスのように仕切る、
四つになったら折れッちまいそうなほど細い、
鳴門海なんてえ幕内力士がいて、
この人、オノレは大好きだったな。
で、小兵ながら大関にまでなった貴乃花の、
精一杯、苦しげな表情で戦う姿も好きであった。
しかしオノレが大相撲に強い歓心をよせたのも、
この貴乃花から千代の富士あたりまでだったような気がする。
千代の富士以後は年々興味が薄れ、
よほどヒマなときテレビ観戦しないでもないが、
今はたいていニュースの中で見るだけ。
二子山親方の息子、「若貴」時代の相撲人気にも、
それほど興味を感じなかった。
どうしてこんなに相撲への興味が薄れちまったんだろう…。
ハッキリとはわからんが、
たまにテレビで見る今の土俵では、
砂にしみた汗臭い匂いや、
出身地なり、その風土を想起させる力士の個性が薄い。
かつてオノレは、土俵に立つ力士たちから、
それぞれが生まれ育った「田舎の匂い」を強烈に感じたものだ。
兄の初代・若乃花も、貴乃花も、
青森や北海道の風土を力にして強くなったような気がしたし、
北の湖や千代富士なんてえのは北海道の代名詞の感さえあった。
今、朝青龍を頂点に外国人力士隆盛の時代だが、
彼らを見ていてもそれほど「お国柄」を感じないぜ。
すっかり日本に溶け込んで、
乱れた日本人より日本語がキチンとしていたりする。
そう、高見山・曙・武蔵丸…。
彼らにはシッカリ「ハワイ」を感じましたがネ。
 角界のプリンスなんぞともてはやされた貴乃花であったが、
オノレにはプリンスなんてえ形容はあまりピンとこない。
一番一番粘りに粘り、死力をつくすあの細身の体には、
恐ろしく厳しい指導で貴乃花を育てた兄と同じに、
紛々と「田舎くさい」青森の風土がしみこんどった。
横綱の夢やぶれ、息子二人を横綱には成したが、
ここ四、五年は決して平穏の日々ではなかったらしい。
そして遂に「癌」という病魔と闘い、
刃折れ矢つき果てた小兵の名大関…。
 合掌。


  書きとめておきたい言葉
Date: 2005-05-28 (土)

書きとめておきたい言葉。

「自然体というか、その役になりきるということは、
誰もいなくてもちゃんとやれなきゃいけない。
肩に力が入りすぎると、お客さんが引いてしまう。
要は無心です。」

「役の研究でも、演じるときでも、
けいこは100%、120%やる。
舞台は80%で止める。」

「役者も、もう一人の自分を置いて見る冷静さが必要です。
でも、あまり冷静だと役に入り込めない。
どこまでやるか、どこで止めるか。」

(5月27日 朝日新聞夕刊 「文化芸能欄」)

 オノレと同い年の歌舞伎役者、中村吉右衛門の言葉である。
同い年とは思えぬほど、役者として含蓄のある言葉だよな。
役者の端くれにいるオノレとしては、
吉右衛門の表現に対する鋭い認識に、
「オソレイッタ」と、ただ唸るだけなのである。 


 
Date: 2005-05-27 (金)

 《深川や低き家並のさつき空》(永井荷風)
こんな風景を俳句で詠めるのも今は昔。
今はかつての低き家並みを高層マンションと詠まにゃならん。
そう、オノレが餓鬼のころ、空は常に満天であり、
大いに幅を利かせて人の頭上にあった。
その満天の光を浴びながら、
餓鬼共は泥んこになって遊び、毎日親に叱られた。
ま、「お医者さんごっこ」のように、
天をさえぎりコソコソやったアソビもあったが…。
そういう「例外的アソビ」を除けば、
あの頃のオレタチは、
およそ家の中に閉じこもっちゃいなかった。
休日はもちろん、下校して帰宅するやいなや、
近所の子供たちのほとんどが空地に集まり、
みんな体中を使って「生身の肉体ゲーム」をしながら、
日暮れまでたっぷり遊んだ。
で、銭湯行って汚れを落とし、
ペッチャンコの腹で食う晩飯。
毎日変わらぬ貧しい御数ではあったが、
エネルギーを消費しつくしたお腹には、
何を食っても旨く感じるご馳走であった。
そしてほとんど勉強しないで、夜八時には蒲団の中。
「明日は何をして遊ぼうか…」、
そればかり考えているうちに寝入った。
 餓鬼の頃、空はいつもオノレとともにあった。

   五月晴れ遊ぶ子供の影もなし    麦 人 


  ゴールド免許証
Date: 2005-05-26 (木)

 一昨日、携帯電話をトイレでポッチャンしちまって、
やはりデータは完全に失われとった。
さっそく昨日、新しい携帯を購入。
とりあえず必要なデータを入力したんだが、
まる半日もかかった。
目は疲れる、指は痛くなる、首筋まで凝ッちまったぜ。
さよう、文明の利器も決して人にやさしくはない。
 午前中、ヤマノカミの免許更新で、
久しぶりに車を動かし自宅と試験場を二往復。
ヤマノカミは二十年以上もペーパードライバーであるから、
無事故無違反の「模範ドライバー」。
てえわけで、カガヤカシイ「ゴールド免許証」なのであります。
しかし、たった一度の駐車違反で、
目前の「ゴールド免許証」取得をフイにしちまい、
地団駄踏んで罰金払ったオノレは、
かようなお上の評価方法てえのは、
チト「不公平でおかしい」と思ってるんだが…。
ま、全く車を運転せず、
証明書代わりに免許を保持しとるだけだから、
排ガスも出さんし、事故も起こさん。
よりよき車社会のためにチットは貢献しているともいえるか?
 さて、ここだけのハナシ。
ヤマノカミは飲酒運転で道路を「暴走」はしないが、
自宅においては、たまに飲酒過剰となり、
オノレに向かって「ボウソウ」する夜がある。
コワイコワイ!


  水難の夜
Date: 2005-05-24 (火)

 昨日は最悪の夜であった。
まず仕事先のトイレで、上着の半纏をモゾモゾ着直した拍子、
ポケットの携帯電話が西洋式便器の中へポッチャン!
慌ててキュウシュツしたのだが、
オノレの下痢気味排出物の汚水にやられ、
ケイタイクンはあえなくデキシ。
あまりにクサイ、コッ恥ズカシイ失敗であるから、
仕事でご一緒した声優さんたちに、
便器の中へ落としたと正直に告白できんかったね。で、
「洗面所で手を洗うときウッカリして…」と虚偽報告。
みなさん、ヤヤ気の毒そうな顔で笑いながら、
いろいろ講釈してくれました。が、中には、
「ほんとは便器にポッチャンでねえのかい?」と、
疑念を抱いたヤツがいたかもしれん。
 昨夜の仕事は毎週吹き替えとる外画なんだが、
レギュラーの一人に、M君という気立てのよい若者がおる。
彼はオノレ日記帳をチョコチョコのぞいてくれてるんだが…、
どうかこの恥ずかしい真実を、
アチコチの仕事場でバラさんといてや、M君。
ほんとうに心ヤサシイ君だから、
たぶん黙っといてくれるだろう。
この日記上からオネガイいたしますデス。
 さて、明日までドコモショップへ行く時間はない。
せめてデータだけでもゼツメイを免れ、
新しい携帯に移せればよいんだが、見通しは暗いナ。
 ところでまた最悪だったのが仕事帰り。
あのバケツひっくり返したような突然の大雨。
歩いとったオノレは、アットいうまに下着までずぶ濡れ…。
まさに水難のWパンチをくらった最悪の夜であった!


  自然体
Date: 2005-05-23 (月)

 あるがままに、素直に、自然体で生きる。
多くの人ができればそうありたいと思っているのではないか。
しかし現実社会は虚飾に満ちとるし、
その中で、人は容易に裸の自分をさらして生きることはできん。
まして役者なんてえ人種は、
実生活でも自然体で生きてはゆけない代表だろう。
本人の生地そのままが役者としての魅力に思える人も多いけど、
実は本人自身、それを強かに意識して、
そういう自分を創っているのかもしれん。
 昨今、自然体の演技全盛のような気がする。
だがそれも自然体のごとく客に見えるよう、
役者が努力・苦労し、劇的自然体で演技しているのであって、
日常のお喋りや動きをそのまま演じているわけではないのだ。
ところがときに、この劇的自然体と実生活における自然体を、
はきちがえているのか、
一緒くたにしちまっているような舞台もある。
いかにも自然風表現にこだわって創ったかのように、
まことに淡々、日常ふうに演じる「マッタイラ」な舞台。
オノレはたまにそんな舞台を観て、
その退屈さにヘキヘキしちまうことがある。
このような舞台の創り手たちは、
戯曲や役のもつ内容、性格を、どう考えて創造しているのか、
自然体の演技がナカナカできないオノレを一先ず忘れて、
つい首を捻っちまうんだよナ。
 現実ではありえない、どんなに大きい表現であっても、
客が面白く感動すれば自然体の演技である。
いかに日常的リアルな表現であっても、
客が白けたり退屈するのであれば、
それは「死に体の自然体」ではないか。
 不自然な演技と劇的に必要な大きい演技を、
役者はシッカリつかんで役創りせにゃならん。
 エライコッチャ!


 
Date: 2005-05-21 (土)

 酔って帰宅。
ヤマノカミに氷水を出してもらい、一気に飲み干す。
飲み干して、水は命の源泉であるとつくづく思う。
この水が飲めんような環境にずっとおかれたら、
オノレはまちがいなく狂うな。
 水は人間をふくめた、
自然の全てを支配しているのかもしれん。


  ピアノマン
Date: 2005-05-20 (金)

 ピアノマンはプロのピアノマンであろうか。
そして何処の国の男で、なぜイギリスの海岸にいたのであろう。
ほんとうに記憶と言葉を失っているとしたら、それはなぜか。
とにかく世界中で話題になっているピアノマン。
写真で見る限り若く、なかなか知的に見えるし、
憂いに満ちた表情と姿は、
かなり女の母性本能をくすぐるにちがいない。
しかし何といっても、
「ピアノ」という芸術的楽器にまつわる「事件」だからこそ、
人々はより感情を刺激され、想像力をかきたてられるのだろう。
例えばオノレのような役者が、
同じシチュエーションで異国の海岸をさまよったらどうなるか。
バカバカしいと思いつつ、チトマジメに考えてみた。
ともかく楽器の演奏なんぞできんからな…。
突然、収容された病院で、
別役実だと異国の人は理解できんだろうから、
シエイクスピアとか、ギリシャ悲劇の台詞を、
朗々と語りはじめるッてえところかな。
(オセローでもオイディプスでもいいから、
そうとうシッカリ憶えておかにゃならんぞ)
台詞以外は一切語らず、過去の記憶は完全に失う。
しかし台詞だけはときに半日、名優のごとく語り続ける。
そしてたぶん、オノレは謎の狂人として、
別に世界中の話題にもならず、
ひっそり精神病院へ移送されるはめになる。
ツレエナア…。


  国立劇場 「前進座・五月公演」
Date: 2005-05-19 (木)

 国立劇場へ前進座公演を観にいく。
開演が午前11時。
こんな時間から芝居を観るのは久しぶりだ。
それでも我々の芝居では考えらんほど、
たくさんのお客さんが観に来ていたな。
実にウラヤマシカッタゼ。
「佐倉義民伝」(瀬川如皐・作)と、
「権三と助十」(岡本綺堂・作)の二本立て。
とちらも面白い舞台であった。
「権三と助十」は、
神田の裏長屋に住む駕篭かき二人を中心に、
そこの大家と住人たちが繰り広げるドタバタ人情話。
肩のこらない、落語のように笑える世話物歌舞伎だ。
 前進座の役者はこういう世界を演じると、
いやまあ、とにかくヨクハマルノデス。
昔の貧乏長屋のような劇団の長い歴史があるから、
この手のものは十八番(オハコ)。
皆生き生きと喋って動いて実に愉しい!
 「佐倉義民伝」は泣かされる芝居である。
オノレは子供の頃から、この作品を何度も観ている。
そして何度観ても泣かされッちまう。
 数年続きの凶作に苦しむ下総の農民たちは、
過酷な年貢米を取り立てる藩主に、
江戸の屋敷まで押しかけ、
年貢軽減を直訴するが門前払い。
この農民たちを救うため、
名主の佐倉宗五郎(木内宗吾)は、
死罪覚悟で、将軍への直訴を決意する…。
まことに骨太で分かりやすい粗筋だ。
 将軍への直訴を前に一目妻子に会いたいと、
大雪の中、江戸から戻った宗五郎は、
印旛沼の渡し守・甚兵衛の小屋に辿りつくんだが、
オノレはこの場が最も好きで、男涙がドッとあふれる。
そう、今は亡き名優・中村翫右衛門の宗五郎は、
この場で老甚兵衛と話しつつ、
将軍直訴への覚悟と妻子への想いとが交錯し、
その狭間にある深い苦悩をみごとに演じた。
 さて、恥ずかしながら本日の舞台で、
この宗五郎をオノレの実兄・嵐圭史が演じておる。
ナカナカ好演しとったように、
身贔屓ナシでオノレは思った。
が、翫右衛門さんの域までいくにはまだまだかな…。
名主として、夫として、親として、
もう一つ深い苦悩の見せ方が必要な気がするし、
雪の中、疲れ果てた体に鞭打って、
再び江戸へ向かう覚悟の凄みが、
もっともっと欲しい感じがするんだよな。
名優になるにはホンマニタイヘンナノダ。
 三文役者の弟が、
生意気言ってお許しください、オニイサマ!


  朗読
Date: 2005-05-18 (水)

 先週と今週、二つの「朗読会」に顔をのぞかせた。
一つは浅田次郎・作、
「天切り松・闇語りシリーズ」の中の二作品。
もう一つは樋口一葉の「十三夜」。
正直、どちらもシンドイひとときであったな。
一時間以上、長い朗読を人に聞かせるてえのは、
語り手にとってほんまに大変、
やっかいな「挑戦」なんだとつくづく思う。
 語り手は己が活字で読んだときの感動を伝えるため、
あれこれ努力・工夫しながら「必死」に語るし、
一言一句間違えんよう「真面目」に語ったりもするのだが、
それがともすると空回りになッちまう。
聞き手は朗読者の創る空間をナカナカ堪能できない。
「活字で読めばヨカッタ」てなことにもなりかねん。
とにかくお客は、「読書」とは異質の、
生身の人間が目の前で語るからこそ得られる、
「何か」別の面白さを求めているのだ。
その「何か」の魅力を求めて、
語り手の創る空間にワザワザ足を運ぶんだと思う。
つまりこの「何か」を、語り手がよほどシッカリ創らんと、
堪能しようと期待しつつ裏切られていく客席の空気、
自ら生み出すダラダラした長い時間の重みに、
語り手自身が打ちのめされてしまうことになりかねん。
 オノレは、「朗読」をして人に聞かせるてえことは、
語り手の技量はもちろんだが、
取り上げた作品の「何に」感動し、
「どう」語り、「何を」伝えたいのか、
そのコンセプトがよほど明確にないと、
うかつにできない「挑戦」のような気がする。
(少なくとも入場料を頂いてプロとしてやる場合はだが)
ま、これは朗読に限らず芝居もまったく同じでありまして、
ゆめゆめ役者はユダンしてはいかん…ということだよな。
しかしまことに言うは易く、その実「創り」難い、
底なし沼のようにも奥深い創造表現の世界…ではある。
だからこそ我々は飽くなき「挑戦」をしたくなるてえわけ。


  電話
Date: 2005-05-16 (月)

あいつはどうしているのだろう
さっぱり音沙汰ないじゃないか
あいかわらず忙しいにちがいない
彼も…彼女も
それぞれがそれぞれの仕事をして
それぞれの世界で
時間を
ときには友を忘れて生きている
おれから電話してみよう


  落魄の人
Date: 2005-05-14 (土)

ときどき
落魄の道で死んだ一人の役者の翳を思う
17年ほどまえ
真夏の黄昏
サングラスに黒ハンチング
黒オーバーという出立ち
オーバーの下はパンツだけ
耳に挟んだ短い赤鉛筆
立川競輪の予想紙を握り締め
俺が開いた三坪の居酒屋に
ヌルッとあらわれ
ビール一本
呻くように飲み干し
シンチャンはそそくさ消えた
彼の姿を見たそれが最後
一年後
シンチャンは熱海の小路に行き斃れ
人生の舞台から下りた
68歳


  「女性専用車両」
Date: 2005-05-12 (木)

 痴漢対策の一つとして首都圏の電車に、
「女性専用車両」ができたという。
なら、「男性専用車両」てえのはできんのかい?
一応「男女平等社会」なんだし、
ま、どなたも信じちゃくれんでしょうが、
若かりし頃、満員の車内で立っている(足がネ)オノレの股間を、
ワシヅカミしたオバサンがおりました。
これは事実です!
今となっては証明できない事実なのであります!!
あら、それほどムキになることでもねえか。
「アンタはチカンされる恐れがないから、
専用車両に乗らんでいいネ」と、
オノレはウッカリ、軽い冗談のつもりでヤマノカミに言った。
と…彼女の顔面から一瞬血の気が失せたぜ。
いやはや、幾つになろうと女はオンナなのであった!
そう、例え妻であっても、
下手な冗談は「セクハラ」になりかねん。
 ところで「女性専用車両」が婆さんで満員になる…、
てえようなこともあり得るんだろうな?


  ガンバルゾ!
Date: 2005-05-09 (月)

 ゴールデンウイーク終了。
「オノレ日記帳」も一週間休んで今日から再開。
とはいえ、これからもチョコチョコお休みする。
 さて、オノレの黄金週間はどこへも行かず、
来月に迫った「象」の稽古開始にそなえて、
制作としての事務的準備をアレコレやってガンバッタ。
が、この「頑張る」てえのが、最近は流行らんというか、
世間での受けがあまりよろしくないようで…。
頑張ってる人に、うっかり「ガンバレヨ」と励ましたりすると、
かえってやる気を失っちまうヤツも多いらしい。
ハッキリわからんが、世の流れは「ムリをしないで」とか、
「身の丈にあった」とか、「マイペースで」とか、
かような志向になりつつあるってえことなのでありましょうか?
 オノレもどちらかといえば、
この「ガンバル」をよく使うほうである。
しかしこれからはあまり乱発せんようにしたほうがいいのかナ。
ま、オノレの場合、おおよそ自分自身を叱咤激励・鼓舞するため、
「ガンバル」と言うことが多い。つまりオノレという男は、
己に常にそう言い聞かせんと何もやらなくなっちまうほど、
根っから怠惰なヤツてえわけで…ナサケナイ。


  書きとめておきたい言葉
Date: 2005-05-02 (月)

 書きとめておきたい言葉。

「観客を集めることから発想される演劇が増えている中、
何を語るべきかから出発できたのは劇団公演だからこそ」
                (劇作家  斉藤憐)

 オノレもまず集客ありきの発想で上演作品は選びたくない。
役者として、ときには演出・プロデューサーとして、
客に何を語り、いかなるメッセージを発するか、
金に換えられぬ、その「普遍的価値」が全てとさえ思っとる。
ハナッから少ない予算で公演をするしかない我々の、
それでも芝居をしたい意欲と情熱を支えているもの…。
それは例え力不足でも、
この「普遍的価値」を失うまいとするプライドなのかもしれん。
 で、斉藤さん。オノレのように、劇団ではない、
寄せ集めのプロデュース公演でも、恥ずかしながら、
「何を語るべきかから出発」しているツモリではあります。

「なにもかもきっちりしないまま、きてるね。
世の中はとてつもなくひどい。
多民族・多文化が共生して、人と自然が親和しなかったら、
僕たちは滅びるんだ」
             (評論家・作家  いいだ もも)

 今の時代のありかたを諌め、
人類の未来のありかたを示唆する老作家の直言。
オノレは謙虚に耳を傾け、
オノレのヒドサについてまで、ツイ検証しちまったナ。
 両氏の発言は、4月30日の朝日新聞夕刊に、
同じ紙面上に掲載されとる。