新国立・中劇場で、 鄭義信・作「たとえば野に咲く花のように」を観劇。 ギリシャ悲劇のアンドロマケの悲恋物語を、 1951年、朝鮮戦争当時の日本に変えてのドラマだ。 鄭義信は、今オノレがもっとも注目し評価する劇作家&演出家。 九州の港町にあるダンスホールを舞台に、 そこで働き、出入りする男女たちの愛憎に満ちた世界が、 作者の戦争や差別にたいするメッセージをこめつつ描かれとる。 しかしそのメッセージの客席への伝わり方は、 これまでオノレが観た鄭作品に比べ、 オノレには、ちとインパクトが弱かった。 「アンドロマケ」の話の骨格に縛られ、それを壊さぬために、 この作家の豊かで奔放な創造力がやや削がれたか? その一例として、朝鮮人の女に一目惚れする男と、 その男の婚約者との関係が今ひとつ理解しにくく、 オノレにはどうもピンとこなかった。 主演の七瀬なつみはしっかりした演技で感心。 しかしその他の出演者の中に、ミスキャストなのか、 あるいは役のキャラクターのつかみ方の問題なのか、 オノレが首を捻るような役創りがあった。 もっともこれは演出家の考え故かもしれん。(演出・鈴木裕美)
「典型とは表現される限りにおいては、特殊でなくてはならない。 そして伝わってくるものに普遍性があることである。 そこに観客のおどろきがあり、笑いが生じるのだと僕は考える。 逆に類型とは、ともかく誰でもやりそうな表現をする。 そのくせ普遍性が感じられない。」
改めてマルセ太郎の語った言葉の深さを想う。 もう一つ感じたこと。 新国立・中劇場のようなでっかい器の空間は、 ひょっとして鄭義信の作品世界とそぐわんのかもしれん? 彼の生み出す登場人物の放つ泥臭い汗や体臭…。 この体臭が客席に漂うことを、 我々の税金によって運営されとる国立劇場という官僚的空間は、 どうも拒否しちまっているような、そんな気さえする…と、 生意気を重々承知でオノレは思う。 鄭さん、カッテにホザいてオユルシアレ!
|
|