オノレ日記帳

2007年12月の記録



  辛く厳しい年の暮れ
Date: 2007-12-29 (土)
 2007年の幕もそろそろ下りる。
この一年を振返り、オノレなりによかったこと、
反省せにゃならんことはいろいろとある。
 今年、 オノレにとって最大の収穫と悦びは、
五月の独歩公演で、「虫たちの日」という作品を、
今井和子さんと共演し上演できたことである。
オノレはこの芝居によって、
演ずる面白さと幸せとオソロシサを、
改めて深く知ることができたのである。
で、反省せにゃならんこと…、
これはもうタップリあって尽きませぬ!
 さて、世の中はと見渡せば、政治家・官僚連中の、
次から次に国民を愚弄する無策、無責任、
嘔吐したくなる「欺まん」のてんこ盛り。
かような国家の中で、人は絆を失い、
断絶し、自閉し、凶悪化していく…。
 ああ…、我らの未来に、
明るい材料をあまり見出せない社会の現状…。
なんとも辛く厳しい年の暮れではある。
 それでも皆さま、よい新年を!

  チラシ用・顔写真撮影
Date: 2007-12-15 (土)
 今日は夕方から、
来年5月の独歩プロデュース公演に出演する役者さんたちに、
拙宅まで足を運んでいただき、チラシ用・顔写真撮影。
で、この機会を利用し、親睦を深める飲み会と、
あわせて忘年会もやってしまおうという一石三鳥?!
が、結果として今日顔をそろえるのは、
十人の出演者のうち五人で、
五十代から七十代のトシヨリ役者ばかりてえことに…。
若い(といっても三、四十代の連中だが)役者の皆さんは、
この年の瀬、なかなか忙しい様子で本日は欠席。
別日に改めて顔写真撮影することと相成った。
 今年五月の公演を終えてからしばらくは、
次の公演まで一年も間が空き、
チト寂しいような、もの足りないような気もしとったが…、
何だかんだと、慌ただしい日々を過ごしとるうちに、
最早、来年五月公演の稽古開始まで、三ヶ月を切ってしまった。
ここにきて、ジワリジワリと、
身も心も昂ぶりはじめているオノレである!

  悪夢のマラソン
Date: 2007-12-11 (火)
魘されて起きる暖冬の夜明け  麦  人

 マラソンをしている苦しい夢を見た。
昔々、中学時代のマラソンで、オノレは三位をとったことがある。
二十代くらいまでのオノレは、
短距離はだめであったが、長距離は案外得意だった。
そんな体験のあるせいだろう、
いまでもたまにマラソンレースに参加している夢を見る。
 夢のはじめは快調に飛ばし一人トップで、
それはもう気持ちのよい状態で快走している。
だが、とにかくトップを走り続けて、
みごと優勝するつもりの夢なのである。
夢とはいえ、いつまでもラクに走れるわけがない。
ゴールが近づくにつれ、足は思うように前へ出なくなり、
呼吸は乱れ、けっきょく一人、二人と、次々に追い抜かれ、
最後は心肺停止のような気分の悪い状態で目が覚める。
これは実に危険な悪夢ではないか!
いずれこの夢の中で、
オノレはさらに負けじと頑張りすぎたあげく、
そのままあの世へ逝ってしまうのではあるまいか?
 ポックリ病の死因は、案外このような悪夢によると、
ちかごろオノレは考えはじめている。

  昨日の日曜日
Date: 2007-12-10 (月)
 昨日の日曜日。
午前10時から夕方まで洋画の吹替え。
「ベオウルフ」というアメリカ映画。
全編CGを駆使した古典的怪物映画?
オノレは西暦500年のデンマーク王・フロースガールの声。
(オノレの大好きな俳優、アンソニー・ホプキンスが演じとる)
DVDで発売されるが、いつ頃なのかわからん。
 午後6時過ぎ、小平の居酒屋へ。
この日の昼、毎回独歩の公演で受付を手伝ってくれる、
津田美弥子チャンのコンサートがあった。
彼女は母子家庭で、三児の子を働きつつ育て、
かたわら女性の地域コーラスグループに参加、
ひばりのごとき美声目指してノドに磨きをかけとる。
で、九日の日曜は、三年に一度、
このグループが公にその美声を発表する晴れ舞台の日。
三年前はオノレも拝聴し、まことに爽やかで、
微笑ましい舞台だったという印象がある。
今回のコンサートに行けず、まことに残念であった。
しかし拝聴したヤマノカミやオノレの友人たちが、
終演後、居酒屋でニギヤカに感想を語る…、
というより、美声ではない、
酒まみれの悪声で「吠え」合ッとる席にだけ、遅れて合流。
そのにぎやかに吠えてる連中の言によれば、
グループ全体のアンサンブルと歌唱力が、
これまでよりさらにグレードアップ。
なかなか感動的、素晴らしいコーラスだったらしい。
 さて、宴が盛り上がるにつけ、ヤマノカミは久し振りに泥酔。
そのドタバタの内容をバラスわけにいかんが、
日頃、カミさんに大きなストレスのたまらんよう、
オノレもそれなり努力しないと、
結局、オノレがドエライ目にあう破目になる!

  諸行無常の鐘の音
Date: 2007-12-08 (土)
酔うて読む訃報紙面の十二月  麦  人

 オノレの先輩や同世代の人との酒席では、
いつも一つや二つ、人の死亡が話題となる。
歳を重ねるということは、肉親や友人たちとが、
年々、この世とあの世に別れる現実が増えることでもある。
 終世、諸行無常の鐘は鳴りつづけ、
老いるにつけ、人はその音の響きを間近に聴く…。

  戯曲 「ダニーと紺碧の海」
Date: 2007-12-07 (金)
 今夜は小劇場〈新宿シアター・ミラクル〉で、
「ダニーと紺碧の海」(ジョン・パトリック・シャンリィ作)という芝居を観る。
過去の独歩公演、二作品に出演してくれた蓮池龍三君と、
山門久美さんという女優が企画・プロデュースし主演する二人芝居。
 ブロンクスで暮らす二十代終わりの男と、三十代前半の女のドラマ。
安っぽいバーで出会った二人は、
互いの荒んだ生活環境と閉塞した心をぶつけあい、
徐々に打ち解け、女の部屋で結ばれ、一夜を明かす…。
現代アメリカ社会から落ちこぼれ、
行き場を見失っているかのような男女の、
鬱屈したエネルギーと小さな希望が激しく葛藤する面白い戯曲だ。
 以前、ある女優さんがこの戯曲を自らの手でプロデュースし、
女を演じたいので、演出をしてくれと頼まれた。
残念ながら、彼女に公演出来ぬ諸々の事情が生まれ話は流れた。
そんなオノレの過去もあり、芝居創りにたいする姿勢において、
誰にも負けぬほど真摯な蓮池君の今日の舞台は興味津々…、愉しみだ!

  海千山千プロデュース公演 「いもづる」
Date: 2007-12-05 (水)
 昨夜は下北沢・楽園で、海千山千プロデュース公演、
「いもづる」(作・演出 鯨エマ)を観劇。
 劇団・一跡二跳の山下夕佳ちゃんが主演しており、
彼女は、来年二度ある(5月と12月)、
独歩プロデュース公演の両方に参加してくれる。
とにかく感性豊かな女優で、来年のオツキアイが愉しみ!
 この舞台には、菊地佐玖子さんという、
オノレの劇団時代の先輩女優が出演しておった。
で、終演後、35年振りの…?再会。
彼女はオノレを何者かまったく判断できず、
本名を名乗るとようやく思い出し、
「まあ、こんなに老けちゃって…」と驚愕しとった。
この舞台での彼女の存在感と演技は圧倒的で、
一人の先輩女優の変貌の凄さに、オノレもビックラコイタ!
 芝居は、作者の体験をもとに書かれたようで、
家庭崩壊、介護問題、阪神大震災など…、
いろいろニギヤカに展開した。
それを狭い空間でうまく観せて、案外の佳作であった。
★★★

  小春日
Date: 2007-12-04 (火)
小春日に犬をなでつつ転寝   麦 人

 愛犬の乙女は寝るのが仕事のごとくよく寝る。
ちかごろのオノレも、それが趣味のごとく転寝(うたたね)する。
冬はマンションの部屋の中にお日さんがよく射しこむ。
今日のような小春日には、
《酔生夢死》の余生も悪くない…と、思わんでもない。
が、しょせんそうなるには、
働かざるとも生きていける条件なしには難しい。
オノレハ スグ アキラメザルヲ エナイノダッタ…!。

  劇団1980公演「行路死亡人考」
Date: 2007-12-02 (日)
 昼、蔵前にあるアドリブ小劇場というスペースで、
若い人たちの芝居を観させていただく。
(チラシの地図が、大江戸線から行く場合は大雑把すぎ、
劇場に辿りつくまで20分も放浪)
 その後、お隣の両国・シアターXへ駆けつけ、
夕方5時開演の芝居、劇団1980公演「行路死亡人考」を観劇。
 1980の主催者・藤田傳さんの代表的作品。
これを今回、モルドヴァという国の、
ベトル・ブトカレウという人が演出。
オノレはたぶん二年ほど前、紀伊国屋サザンシアターで、
作者、藤田傳自身による演出で、この舞台を観た。
で、そのときの舞台と今日の舞台とは、
同じ作品とは思えぬほど印象が異なる。
出来上がる舞台の姿は、演出によりこうも変わるものか…。
創造する世界の奥深さに、改めてオノレはナットク。
 ブトカレウ演出は、ホリゾントにさまざまな映像を映し、
舞台全体には何枚もの障子を配置、
これを自由自在に動かし、
シルエットを浮かび上がらせたり、紙を突き破ったり、
さまざまにイメージを投影し、創造的に利用する。
で、このアバンにも思える舞台から客席に届く世界は、
あんがいリリカルな雰囲気である。
そのことにオノレはチト驚き、不思議な感じをもった。
このブトカレウ演出により「行路死亡人考」は、
作者本人が演出した以前の舞台とはまた異なる、
個というより群集の、
大きな世界の中で埋没する人間たちの、
新たな軌跡と世界を見せたくれたような気もする。
しかし同時に、作品として失って欲しくない、
いくつかの大切なものが見えにくくなったというか、
曖昧になってしまったような、そんな気もする。
日本人的風土と体臭だらけの、
かつその社会から孤立した個の世界が薄まり、
以前の舞台で感じたシニカルな、
咽喉に刺さってとれない棘のような傷み…。
そんなものがチト失われてしまった感は否めない。
この作品は、蒸発し、焼死自殺する男の、
空白の人生を探る主題を、愚直に追いかけて創るほうが、
都会の人間砂漠の中で埋没し、
個を喪失する恐ろしさや不安を、ひしひしと感じるのではないか?
そような姿勢で創る場合、手のこんだ美術や仕掛けや映像は、
それほど必要ではないような…、そんな気もしたのである。