オノレ日記帳

2008年3月の記録



  花冷え
Date: 2008-03-30 (日)
 花冷え…。
桜も一日、二日、散る命を延ばすか?
 これから東小金井に住んでいた頃に親しくなり、
いろいろお世話になった女性と久し振りに会って昼食。
やはりその頃親しくなった方で、
共通の友人である女性も誘いたかったのだが、
オノレも何度かお会いしたことのある彼女のご主人が、
長く患い、どうも深刻な容態らしいので遠慮した。
 ドイツ出身のご主人は、
奥さんと二人三脚で翻訳会社をされており、
大きな躯体、やさしい喋りをする印象的な男。
なんとか病を克服してもらいたい!

臥す人の顔想いだす花冷え   麦  人 

  タメイキ
Date: 2008-03-29 (土)
艶やかに若き夢みる春の朝  麦 人

 ヤマノカミには、チト言えない女人の夢をみて目ざめ、
瞬時〈コウフク〉な気分になる。
でもその気分は、たちまちボンヤリした寂寥感へとかわる。
つい、年寄りくさいタメイキをついてしまった…。

  桜満開
Date: 2008-03-28 (金)
 朝、遊歩道を歩くと、小平界隈の桜もどうやら満開。
この様子だと、四月に入ってたちまち葉桜?
 昨日、近所に住む友人の声優宅へ、
花見に誘うつもりで電話をかけた。
奥方が出て、たぶん風邪なのだろう、ひどいガラガラ声。
「×○♂&○∞!」
 何を言っとるのかさっぱりわからん。
かろうじて、
「タビ…」といったような気がしたから、
「旅ですか?」と、聞き返した。
そのとたんに電話は切れちまった。
どうも申し訳ない電話をかけてしまったようである。
 このオノレの友人はよく旅に出る。
その旅では、必ず親友のいる京都へ寄り、一二泊するらしい。
今頃、ひょっとすると嵐山の桜に囲まれ、
かの親友と花見酒をしつつ、
人生の侘び寂びでも語っているのではないか?
 オノレは一人花見へ行く気にもならず、
自宅に閉じこもり、ダラダラと芝居の稽古をはじめた…。

桜雲は寂しさばかりつのらせて  麦 人

  仲間の目
Date: 2008-03-27 (木)
 あたりまえと言ってしまえばそれまでだが、
オノレのごとき並の役者でも、芝居の稽古場に於いて、
他人の演技の良し悪しは、あるていど理解できる。
が、自身の演技についての正否を、
冷静に、確かに判断することはなかなかできん。
例えその稽古を、ビデオやボイスレコーダに収録し、
客観的に見たり聴いたりしたとしても、
そう簡単に都合よく、正しい答えが見つかるものではない。
つまるところ、それはやはり演出家の目、
共演者やスタッフの目に映ったものを信頼し、
己の表現を測る最良の判断基準にするのが最良の選択である。
 並みの役者が、自身の力以上によい演技をするには、
ゆめゆめ、共に創造する仲間の目を無視してはならん。
素直に仲間のダメや意見に耳を傾け、
少なくとも、その意見にそった表現を、
何度かは試みたほうが必ずトクをする。
で、もし自分の創造的マチガイに気づいたら、
真摯にそのマチガイを改め、よい方向へ転換する努力をせんと、
けっきょく大ゾンするのは、自分自身なのだ!
 さて、自宅で稽古をするときのオノレにとって、
もっともオソロシイ客観的な目は、
それはもう、まちがいなく「ヤマノカミ」。
今朝も台所からアレコレ助言してくれております。
「うるさい、 言われなくてもワカットル!
ワカットルけどデキンノダ!!」

  竹馬の友
Date: 2008-03-26 (水)
 今年の五月、十二月とある独歩プロデュース公演には、
オノレの竹馬の友といえる役者二人が出演してくれる。
 五月の「おたまじゃくしはかえるのこ」には中村直太郎。
十二月の「ブラインドの視界」には河原崎建三。
この両君とオノレは、ともに「前進座」という劇団内で育った。
 直ちゃんの父上は松本染升さん。
なかなか得がたい個性を有し、踊りも芸も達者。
幅のある芸域で、主に脇を固めた歌舞伎役者であった。
 建ちゃんの父上は、前進座の創立者・河原崎長十郎さん。
歌舞伎十八番「勧進帳」における弁慶など、
荒事を演じれば、それはそれはスケールの大きい、
豪快な演技で客を圧倒し、まさに一枚看板の立役者であった。
 オノレの父(五代目・嵐芳三郎)は、主に女形をしとったが、
長くお二人と一緒に、前進座の舞台で活躍した。
もちろんこの三人の父たちは、とうに他界しとる。
が、その三人の、いまや六十代半ばに近づいた息子たちは、
ここ一、二年の間に、思いもよらぬ成り行きから、
久し振りの嬉しい再会を果たす機会に恵まれた。
で、建ちゃん、直ちゃんは、
独歩プロデュース公演に出演することを、
二つ返事で、快く引き受けてくれたのである。
 その昔、我々前進座の子供たちは、座内の住居に集団生活し、
皆同じ小中学校へ手を繋ぐようにして通ッとった。
座の敷地内には小さな広場があり、
我々は毎日のように、そこで仲良く遊び、喧嘩もよくした。
 あれから半世紀を超える歳月を経て、
互いにそれなり老けてしまった三人…。
たぶん順風満帆ばかりの日々ではなく、
人生の酸いも甘いも、ちッとは経験してきた風情の三人…。
そして未だに、それぞれ、それなりガンバッテ、
役者稼業を続けている三人!
 今年のオノレは、この竹馬の友との、
懐かしき過去の思い出を心に秘めて舞台を創る。
幸いにも、今なおケンザイな彼らの体と心を拝借し、
我々の亡き親たちが、もし観たとしたら、
少しはほめてもらえる舞台にしたい。
血反吐にまみれても(まみれたくないが…)、
そんな舞台を生みだしたい!

  詩を語る
Date: 2008-03-25 (火)
 一昨日の日曜日。
「ムジカ・ムンダーナのバッハ」のコンサートに出演。
友人・武久源造の詩・二編を朗誦。
前半に語った「亡き子に寄せて」は、
三歳八ヶ月で夭折した、
彼の一人息子への想いを綴った鎮魂の詩。

《亡き子に寄せて》 武久源造

私がお前を生んだのではない
お前が私を生んだのだ
私がお前を育てたのではなかった
お前が私を育て損ねて
残ったのは飲んだくれ一人
私はお前には重すぎた

お前は、この世にいるには軽すぎた

今私が欲しいのは
夢を演奏できる楽譜
お前があの頃欲しかったのは
夢になれる命
信ずるものが
一つ二つ三つ四つと見えなくなり
私の年齢が、ぽつんぽつんと涙に変わる
今の私には、お前の歳ほどの誇りもない

生死は一如と言うけれど
お前は私を待ってはくれない
どこまで行ってもおっつかない
子のない父に明日は要らず
明日のない子に父は要らない
今日もまた、晴れた空には父の星
それより遠い地面には
ぽつんぽつんとお前の骨

私がお前を葬ったのではない
お前が私を葬ったのだ
私がお前を思い出すのではない
お前が私の思いを創るのだ

信じられる人が
一人二人三人四人といなくなり
心はだんだん石になる
お前を葬るこの石は
お前の重さに耐えかねて
悲鳴をあげつつ、きしみ歌う
ここに生きる苦しみ、
先立つあの世の悲しみ
お前を葬るこの石は
ぽつんぽつんと歌いだす
子のない父の子守唄
父のない子の童歌

今は見えない、
誰にも見えない儚い物を探し集めよ
地獄なんぞは恐ろしくもない
飯を食らえば満腹し
酒を飲めば酔いもする
儚い命を忘れ去り
笑顔を作ることもある
この日々の暮らしこそ
地獄よりもぞっとする

せめて胸いっぱいに吸い込もう
空気という名の夢うつつ
命という名の無為自然

私がお前を背負ったのではない
お前が私を乗せて飛翔したのだ
連れて行ってくれ、
あの陽炎の庭へ
一晩かけてゆっくりと
上っていったら空の果て
今度こそは絶対に
もう絶対に落ちたりはしない
お前を放したりはしない!
だから、もう一度私をあそこまで、
あそこまで…

泡立つ肌を研ぎ澄まして
この瞬間を花開かせよう! 

 源造ちゃんの即興チェンバロ演奏。
福峰有梨ちゃんという踊り手の舞。
そしてオノレの朗誦。
この三者三様の創造的世界の合体により、
幼子を喪い、葛藤し鎮魂する父の心の叫びを表現する試み。
音・舞・言葉の三位一体が、
はたして客席に、どのような世界を映したのであろうか?
 後半は「バッハに寄せて」という詩。
武久源造という音楽家の、
バッハへの並々ならぬ想いに満ち溢れている。
こちらは彼の即興チェンバロ演奏とオノレの朗誦。
オノレの発する言葉と彼のチェンバロとが、
阿吽の呼吸で語り合い、
遠い過去と現在を結んで行き来したつもりだが…。
 三百年前、バッハがすわって見つめた夕陽を、
同じ場所にすわり見つめる音楽家。
その男の心象と風景が、客席の方々のまぶたに、
はたしてどれだけ深く「幻出」したであろうか?
 オノレが「有料チケット」のお客を前に、
表現のプロとして詩を語るのはこれで二度目。
四十代のはじめ、草野心平の二十作品ほどの蛙の詩を構成。
「詩を演ずる」などと、ごたいそうなタイトルをつけて、
舞台狭しと動きまわり演じたことがある。
しかしこの公演では、よい思い出があまりにもなく、
オノレはすっかり忘却しとった。
(これはオノレの独演で、音楽と舞と一緒にするのは今度が初体験。)
 大詩人・心平さんには申し訳なかったが、
若く、未熟も未熟なオノレが演じた「詩を演ずる」は、
たぶん大不評だったにちがいなく、
お客の心を打つ表現にはほど遠い舞台であった。
「カタチ」だけの表現を演じていたのであった!
しかしその厳しい酷評も、本人の耳にはなかなか届かず、
これもまたオノレを苦しめ、打ちのめした。
以来、詩の朗読はとてもオソロシクて、やらなくなった!
 それが今回、武久源造という稀有の音楽家の書いた詩と出会い、
再び役者として詩を表現する意欲に駆られ、
かつての過ちと同じ轍を踏まぬよう、オノレを戒めつつ、
きわめて慎重に、じっくりおずおず取組みはじめた。
が、どっこい稽古をはじめると、
やはり予想以上に手強くしんどい創造過程の日々!
 とにかくオノレは、(失敗した過去もそうであったが)
例え詩や小説など、台詞劇でないものを表現するにしても、
一役者としてそれを「語る」表現には、
いかなる可能性があるかを追求したいのである。
この点だけは未熟に失敗したあの頃から、
今後も変わらずオノレが貫きたい姿勢なのである。
 かようなわけで、今回も詩の原稿を目で追いながら、
ただよどみなく「朗読」をする気はハナッからなかった。
可能な限り、本番では頭の中の活字を忘れ、
詩にこめられた想いと世界を「語り」たかった。
そのため全篇キッチリ、浅い脳天深くタタキコミ、
言葉を追わずとも、その詩の一語一語が、
おのずと口からあふれ出てくるところまでにしたかった。
(万が一のため、手に原稿を持って舞台に立ったが、
天の味方か、二編とも原稿を開かず、
一言一句違えず語り終えることができたようだ。)
 さて今回も、オノレの器に合わぬ、
大それた意気込みで創ろうとしたせいか、
本番当日、己の出番が迫るにつれ、
オノレは強い緊張とプレッシャーに襲われちまった。
胃のあたりが出番終了までキリキリ痛んだ。
ところが無事終わったとたん、痛みは解消しスッキリ!
で、その後は、芝居の創造とはまた異なる、
格別の料理創りと味を体験した悦びに満たされ…。
未踏の創造の山に挑むタタカイをオノレなりに全うし、
新たなる役者としての糧を食うことができた悦びに痺れ…。
ムジカ・ムンダーナの方々が演奏する、
バッハの「ブランデンブルク協奏曲・第5番」を、
一人だけの楽屋で夢見心地に聞きながら、
しばし生温い疲労の海を漂っていたのである。
 結果として今回のオノレの詩の「語り」は、
さんざんだった二十年以上も前と、
同じ轍を踏むことはなかったのではないか…と、
いまのところはカッテに納得し、満足しているオノレである。
 さらに打上の宴では、
次々に出てくる焼肉がなかなかウマく、腹は一杯にミタサレ…!
白い濁酒(ドブロク)のような朝鮮の酒に、たっぷりシビレ…!
それから終電の満員電車で、
ヤマノカミのたよりなき肩につかまり、ユラユラ眠った!
 源造ちゃん、有梨ちゃん、ほんとうにお疲れさんでした。
新たな創造に挑戦する機会をあたえてくださり、
今はただお二人に感謝するのみのオノレであります!

《バッハに寄せて》 武久源造

私の、今座っている同じところに
あなたも座っていたのですね
私の生まれるずっと前
あなたもここに座って
やはり、夕陽を見つめ
生きることの全てをかみ締めておられましたね
静かに降りていく、心の帳が覆い隠したもの
様々な感情の余韻を、あなたは味わっておられましたね

今日もいくらか笑い、仄かに幸せを感じたけれど
あなたの眼には、いつも涙があった
金色に光る涙は、いつしか夕陽に溶けて
あなたは、いつしか歌を口ずさんでいた
誰にも聴こえないような小さな声
でも、ここに座る私には
確かに聴こえる気がします
天使のような美しい声です

川が流れ、いつしか海に注ぐように
あなたの糸車は回り続け
夢を織り上げる七色の糸は
大きな愛となって、あなたの世界を包んでいましたね

嵐の晩
身を硬くする子供たちに、優しく語り掛けるときにも
男どもが、戦いに明け暮れ
心に石の壁を築くときにも
あなたはただ黙って、眼に涙をたたえていましたね

私の耳には、ただあなたの心の歌が聴こえています
微かな歌声です
すぐに聴こえなくなってしまいそうです
もっと、…もっと、あなたの歌を!

聴いたこともない言葉なのに
なぜか私はその歌詞を知っています
子音は、撒き散らされる金粉の様
母音は5色の光の輪
そしてあなたは、いつしか歌となり、七色の光になられましたね

三百年前、ここに座って夕陽を見つめていたあなた!
人生の旋律は無数にあっても
人間の歌は一つだと、教えてくださったあなた!
今、私はここに座り
同じ夕陽を見つめ、あなたと共にいます
いつしか私も歌っています
誰にも聴こえない微かな声で

もしも、歌が聴こえず、光が見えなかったとしても
かつて、ここで命が生まれ、今も生まれ続けていることが分かります
命の音
それは、地鳴りのように、また、宇宙の悲鳴のように
私の耳に溢れます

きらめく永遠の今
あなたも私も消え去って
ただ、歌だけが生き続けます
聴こえないほどの微かな声
しかし、何者よりも力強い声で
その歌は、いつまでも命を紡ぐことでしょう!

  「ムジカ・ムンダーナのバッハ」
Date: 2008-03-23 (日)
 今日はいよいよ、四谷・紀尾井小ホールで、
「ムジカ・ムンダーナのバッハ」というコンサートの本番。
オノレは友人・武久源造氏作の二つの詩を、ついに朗誦する。
 コンサートのメインは、
源造ちゃんとオーケストラの演奏によるバッハの名曲。
しかし、その全体の構成をより愉しんでいただくため、
それほど長い出演時間ではないが、
オノレの朗誦も重要な役割になるにちがいない。
 源造ちゃんの素晴らしい鍵盤演奏の流れを堰き止めぬよう、
バッハの名曲の川の流れの中で、
オノレも生き生きと、「おたまじゃくし」のように泳ぐつもりだ。

  乞う、ご期待!
Date: 2008-03-21 (金)
 水曜・木曜と、「おたまじゃくしはかえるのこ」の本読み稽古。
演出家と役者たちの、まことに活発なディスカッションがあった。
たった二日の本読みで判断するのは軽々に過ぎるかもしれんが、
プロデューサーとして感じるオノレの手応えは充分。
冴えた若い頭脳の女流演出家と、舞台経験豊富なベテラン出演者。
それぞれのもつ大いなる知恵と、粘り強い創造姿勢により、
お客の厳しい観賞眼に耐える面白い舞台成果を生みだしたい。
おそらく過去の独歩公演に劣らぬ、
新鮮で不思議な舞台になるような気がする。
 乞う、ご期待!

  いよいよ今日から!
Date: 2008-03-19 (水)
 独歩プロデュース公演、
「おたまじゃくしはかえるのこ」の稽古が、
いよいよ今日からはじまる。
五月十八日、千秋楽の日まで、
およそ二ヶ月間続く、愉しくも厳しい創造の旅…。
この旅をより充実させるためにも、
全ての出演者・スタッフが、健康な肉体で、
創造と「闘う」日々を乗越えて欲しいと、
オノレはプロデューサーとして心から願う!

  死生の間
Date: 2008-03-18 (火)
 二日前の日曜日。
サコンのオヤジ(吹替演出家・左近允洋)の死顔は、
一切の俗を失い透明かつ美しかった。
去年のマスター(劇作家・安保廣信)もそうであった。
その美しさに、しばし「死」を忘れ、
これで永久の別れだと、仏の肌をそっと撫でる。
永遠に逝った死者の、氷河のごとき冷たさ…。
オノレの掌の記憶にあった、かつての生者の温もりと、
目の前に美しく横たわる死者を融合するものはなく、
厳然としてそこに存在したのは、生と死を遮る凍った壁…。
死生の間を遮るこの壁の普遍に、オノレは一瞬たじろぎ、
おずおずと死者の額にあてがった掌を離した。
それから、最後の別れの言葉がどうしても口に出ず、
花いっぱいの棺の前で、ただただ無心に合掌していた…。

美しき仏の顔に氷河あり    麦  人

  決意新たに!
Date: 2008-03-15 (土)
 我が半生の大切な先輩であり、
劇作家&喫茶店のオーナーでもあったマスター、
安保廣信さんが亡くなり、明日ではや一年。
今夜、糟糠の妻・淑子さんを囲み、
マスターと深く縁のあった者が数人集い、
一日早く、ささやかな一周忌の宴をする。
 マスターが亡くなったその日に、
オノレは己の手により追悼公演をしたいと決意。
今年の12月、中野のMOMOという小劇場で、
その決意を全うする。
紆余曲折はいろいろあったが、すでに去年の秋には、
すべての配役もスタッフも、
ほぼオノレの望んだとおりに決定しとる。
 今夜は、残されてなお気丈に一人暮らしに耐えるママと、
しばし愉しく語らい、大いに飲んで、
純粋の塊のように生きたマスターを偲びたい。
そしてあの世から、12月の追悼公演を、
鋭い眼差しで観劇するにちがいないマスターに、
大いなる拍手をしてもらえる舞台にすべく、
オノレの決意を新たにしたい!

  ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び
Date: 2008-03-14 (金)
枕から外見てをるやころもがえ   一茶

 かような句を読みながら、
オノレの寝ているマンションの五階から見る外と、
一茶が見ていたであろう外の風景のちがいを思う。
オノレの目に映るのは、向かいのマンションの五階ベランダと、
今にも雨になりそうな曇天の空だけ。
とても一茶のような句は浮かんでこない。
ま、とにもかくにもこの句を読んでオノレは思った。
「トックリセーターを着るのはもうやめよう」と。

ことしから丸儲ぞよ娑婆遊び

 この句は一茶が中風から全快し、
五十九歳の元旦に詠んだ句とある。
(「一茶句集」金子兜太解説・岩波文庫)
 とうに六十を過ぎてしまったオノレであるが、
一日も早く一茶のような心境になりたいものである!

  サコンのオヤジ!
Date: 2008-03-12 (水)
 一昨日、サコンのオヤジが逝った!
左近允洋…。
洋画の日本語版・吹替え演出、草分けの一人である。
「刑事コロンンボ」の日本語版のほとんどは、
彼の音響演出によって創られた。
おそらく「ドクター・クイン」の日本語版が、
彼のシリーズもの最後の演出ではなかったか?
オノレはこのシリーズの中で、
ロバート・Eという鍛冶職人の役をいただき、
サコンのオヤジと長くおつきあいさせてもらった。
 オノレが四十代の頃、声優として、まだまだ未熟なオノレに、
チャーリー・シーンや、ロバート・デ・ニーロなど、
名だたる俳優の声を当てるチャンスをくれたのも、
やはりこのサコンのオヤジであった。
 酒が大好き、人間が大好き、(キライなヤツは大ッキライ!)
そしてなによりも吹替えの仕事が大好き!
本番までの緻密な準備。
現場ではギリギリまで妥協せず、
頑固なほど真摯に仕事と取組む凛とした姿勢。
彼のアテレコ台本は、演出の書込みでいつも真っ黒。
 吹替え演出がイメージ通りに仕上がったとき、
破顔一笑するオヤジと共に美味い酒を飲む悦び…。
納得できない様子の仕事の打上で、
今にも怒りを爆発しそうな、オヤジの鋭い眼差しに射竦められ、
その目線に入らぬようひっそり飲むオソロシサ…。
オノレの脳裏に、オヤジと共に過ごした過去のシーンが、
まさに走馬灯のごとくよみがえる。
 享年七十六歳。反骨の野武士が、また一人消えた…。 

  NHKスペシャルでチンパンジーの老人力
Date: 2008-03-09 (日)
 今月の17日(月)、
NHK総合・夜10時から放映されるNHKスペシャル、
「アフリカ 森の政権争い〜長老チンパンジー大活躍」で、
オノレはその長老チンパンジー・カルンデの声をあてとる。
これはこの1月15日に、NHKハイビジョンで、
二時間枠のドキュメンタリーとして、すでに放映されたものを、
50分の長さに縮めたものだ。
 この映像を撮影したアニカプロという制作会社のスタッフは、
20年にもおよび、東アフリカ・タンザニアのマハレ山塊のジャングルで、
京都大学の研究チームの協力のもと、チンパンジーの生態を撮り続けている。
 チンパンジーの一つの群れが、いかなる掟によってなりたち、
熱帯のジャングルで生き残るため、
いかなる老人力を発揮するのか…。一見の価値あり!

  「いのち」に曲が…
Date: 2008-03-08 (土)
 昨日は友人の武久源造ちゃんのスタジオで、
今月23日にある、彼の詩を朗誦するためのリハーサルをした。
で、リハーサル終了後、
恥ずかしながらオノレの書いた「いのち」という詞に、
はやくも源造ちゃんが曲をつけてくれたので、
オノレはかしこまって拝聴させていただく。
歌い手は源造ちゃん。
なかなか個性的な「美声」での熱唱?
ふむふむ…。そうとう練習して歌いこめば、
音痴のオノレにも歌えそうな、やさしく味のあるメロディー。
 紅白に出るため、ガンバロウ!?

  リハーサル
Date: 2008-03-07 (金)
 午後、荻窪の武久源造(鍵盤楽器奏者・作曲家)ちゃんのスタジオへ。
今月、彼の詩を朗誦するオノレと、
チェンバロで即興演奏する源造ちゃんとのリハーサル。
 たがいの表現が呼吸しあい、支えあい、刺激しあって、
えもいわれぬ視聴覚の世界が生まれそうな気がする。
 詩は、源造ちゃんのご子息が、
齢三才八ヶ月で天涯へと逝ったことを想う父の詩。
愛おしく、透明に、哀切に紡がれた一語一語を、
深く大きい命の詩として客席にとどけられればなあ…。

  不眠のはて…
Date: 2008-03-06 (木)
 このところ不眠傾向である。
毎年、芝居の稽古が迫るにつれ、どうも眠りが浅くなる。
それでおかしな夢ばかりみとる。
 今日の真夜中、トイレで起きる前にみたのは、
なぜかオノレが農作業をしている夢。
五坪くらいの荒れた土地を耕しているのだが、
どうもそれはじゃが芋畑。
で、掘り起こした土の中へ、
なぜかオノレはふかした芋を次から次に埋めとるのだ。
かと思えば、畑に立っている木の樹皮を、
先の尖った金具で棒状に削り、
そこから滲み出てくるネバネバした液を、指で掬って舐めとる。
オノレはその液を蜂蜜と思っているのだ…が、
もちろん目覚めて思えば、それはやはり漆であった!
 およそ農作業の経験なき人間が耕作の夢をみると、
かように陳腐でナサケナイ夢をみるのだとよくわかった!

  迫ってきた!
Date: 2008-03-02 (日)
 いよいよ迫ってきた!
あと17日後には、5月公演の稽古が始まる。
独歩のプロデュース公演では、役者もスタッフも、
劇団に所属している人、
かつては所属していたが今はフリーの人など、
いろいろな環境で、舞台にたずさわっている人が集まる。
であるからして、当然、その舞台創りの考え方、
取組む姿勢はさまざまであり、またそこが実に面白いのだ。
幸いというか、不幸というか、独歩の座組みには、
強力なリーダーシップを発揮するプロデューサーや演出家、
あるいはカリスマ的な座長役者がいるわけではない。
リーダーとしての資質にも、創造的カリスマ性にも、
およそ縁のないオノレがプロデュースしているのである。
当然、稽古過程で意見がぶつかり、もめることもしばしばである。
が、エゴの張り合いではない、
創造のための「タタカイ」をおそれず、乗越えてこそ、
一歩、二歩と形象は深まり、めざす舞台の姿も見えてくる。
 力弱きプロデューサーではあるが、
とにかく若き人は萎縮せず、ベテランもエラクなり過ぎず、
それぞれ自由闊達に発言し、よき個性の火花を散らす…。
ま、かような稽古場の雰囲気になればいいなと、
稽古が近づくにつれ、オノレはいつも思いはじめる。