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独演・独談の世界



原作:草壁焔太
「学校がなくなった日」より




 独談「アカシアの町」について 麦人 

 この独談の原作は草壁焔太さんの書いた「学校がなくなった日」
という本であります。
 草壁さんは、日本が太平洋戦争に突入する三年ほどまえの
昭和十三年三月、この話の舞台となる中国の大連に生まれました。
そのころ日本では「国家総動員法」が公布され、国民の経済や生活
は国の統制下におかれました。
世界は暗く厳しい動乱の渦のなかにあり、その渦の中心で日本人は
生きていました。
 草壁さんは「五行歌」という短詩の新しい形式をつくった詩人で
あり、現在までいろいろな小説や評論、翻訳などもしており、幅
ひろい活動をされています。
 その草壁さんが一九八八年に出版した原作を、自分なりに脚色・
構成したのが、この独談「アカシアの町」なのであります。
 原作は「学校がなくなった日」という題名のとおり、作者が通っ
た大連の日本人小学校が戦争に負けて閉鎖された当時の体験を、
わかりやすく格調のある文体で描いた珠玉の作品です。
 はじめてこれを手にして読んだとき、年がいもなく涙がとまりま
せんでした。
そしてこの作品を、ぜひ我が独談のレパートリーにくわえたいと思っ
たのです。
 原作のあとがきで、草壁さんは多くの人が犠牲になった戦争のむ
ごさにふれ、「その悲しい思い出をいまこそこどもたちに伝え、
永久に戦争のない世界のためにみんなが努力すべきだと信じます」
と書かれました。
自分も百パーセントおなじ思いで生きており、役者としての表現活動
をしております。
 それにしてもおのれのようにえげつなく、怠惰に生きちまった人間
にとって、苛酷な時代の中でひたむきに純粋に生きた子供たちを綴っ
た世界の感動を、舞台からどのようにお客さまへ伝えればよいのか・・・
これは黒を混ぜてしまつた白い絵の具を、また白にもどすほど難しい
挑戦であります。
さて、語りにはあくまで原作忠実に、そのまま朗読するやりかたも
ありますが、自分はそのような形をどうしてもとりたくない。
おのれの語りを「独談」とかってにネーミングした意味もそこにあ
ります。
また原作をすべてきちんと語れば何時間もかかってしまう。
独談の上演時間は一時間から一時間半くらいまでの長さがころあいです。
原作の意図、大切な世界を失わずに短くし、「おのれにいちばん
ふさわしいやりかたで、この作品を語らせてもらおう」
そう決意して脚本づくりから、せりふを頭に入れる記憶力との格闘へ、
さらに舞台表現の稽古へと悪戦苦闘、どうやらこの独談上演にこぎ
つけました。
 というわけであらかじめお断りしておきますが、この独談は原作の
人物描写や事実、状況などと必ずしも一致しておりません。
ぼんくら頭ではございますが、ぼんくらなりに精一杯考えて作品のテー
マと心をくみとり、改ざん構成した独談になっております。
作者が一字一字身をけずるようにして書いた素晴らしい作品世界を、
物書きでもない役者ごときが改ざんするのはまことに畏れおおい所業
でありますが、草壁さん、活字とちがう独談の世界に免じてどうかお
許しください。
 いずれにせよ「アカシアの町」がみなさんの心に「何か」を訴え、
原作を読んでいない方も読んでみたいと思ってくださるような独談
にしたい・・・
心からそう願いつつ自分はこの舞台に上がります。
 なお原作の「学校がなくなった日」は、市井社という出版社から刊行
されております。


  



 飢餓のなかの子ども    草壁焔太<くさかべえんた> 

 第二次大戦前の日本は、いま思うと、かなり貪欲に、精力的に世界に
立ち向かっていたという気がします。
 満州には六百万人もの日本人がおりました。
それだけにその数ほどの悲惨が、敗戦後にあったのです。
 私は、日本の植民地の一つ、大連に生まれました。
私たちの感覚では、敗戦までそこは日本人の町にほかなりませんでした
が、ソ連軍が進攻し占領して、国府軍、八路軍が入ってくるに至って、
日本人は罪を犯した人々としてソ連や中国の人々の支配下に置かれまし
た。
 奥地では多くの人が殺害されました。
大連でもいくらかはあったのですが、殺戮・略奪はさほどでもなかった
ということができます。
しかし、戦後一年を過ぎた頃から、日本人には食料がなく、弱い子ども
たちから犠牲になるということがありました。
私の親友の二人は、ともに餓死しました。
私自身も最後の二ヶ月は食べ物を口にできませんでした。
 二ヶ月何も食べないでも生きられたということは、現在の私の大きな
生きる自信となっていますが、何時食べられるようになるかわからない
当時の気持ちは、ただただ生きたい、生き伸びて大人になりたいという
ことでした。
自分たちが大人になれば、なんとかできる、しかし、今は無力な子ども
だから何もできないという思いでした。
 戦後一年半経った昭和二十二年春、故国日本に帰国することができま
したが、その後の私は、子どもが死なない世界にしたいとひたすら願っ
てきました。
 今日でも、戦乱や飢饉で多くの子どもが餓死しています。
私には彼らが、生きたい、生きたいと思っているその気持ちがよくわか
るのです。
よくそういう環境にいる子どもたちの目が澄んでいるといいますが、私
もよくそう言われました。
しかし、思っていることは、いかに食べて、現在のピンチを脱出するか
なのです。
 私は、祈りをこめ、亡くなった幼い友の声を伝えようと、この物語を
書きました。
その物語を麦人さんが脚色して下さり、独談して下さることを私は大変
嬉しく思います。
本を出してからすでに長い年月が経って、本は動かなくなっています。
きっと、私や、健ちゃん(独談では明ちゃん)の思いが、この一人の演
劇人に伝わったのだと思います。
 それはさらに麦人さんの公演によって多くの方々に伝わるでしょう。
 もうひとつ、私はこの二年足らずの幼時経験で異国の人々が、思った
よりも弱者に対して寛容だということも身をもって体験しました。
きっと、世界中の人々がそれを確信する日がくると信じます。
世界の平和は交流が盛んになるに従ってかならず実現します。
それは今、日本で内戦がないことが保証しているではありませんか。
 私たちは、そのことを信じ、世界の人々との交流を深めなくてはなり
ません。
それが、子どもの餓死しない世界をも実現すると思います。


  



 オノレの自己紹介 麦人 


 1944年、劇団「前進座」五代目・故嵐芳三郎の三男として生まれる。
中学校を出てから、劇団「民藝」、マスコミプロダクション等に所属し、
およそ18年間、舞台・映画・テレビ等でそれなりに活躍!代表作は・・・ナイ。
三十台前半で、思うところあり、顔出し(マスコミ)・商業演劇などから撤退。
いや挫折でありましたか・・・足を洗う。そして声優・ナレーションの世界へ
ワラジを脱ぐ。また四十台から独演活動を勝手にはじめ、現在に至る。声優の
代表作としては「新スタートレック」艦長・ジャンリュック・ピカードか。
有名とまではいかんが、知る人ぞ知る。また「新・アンタッチャブル」
カポネの役も凄い!と、オノレは勝手に思っとる。近頃はアニメでも、
若いチャンネーたちに囲まれたスタジオで、ギャワギャワ吼えながら、
チョクチョク活躍しとる。独演「ごびらっふの死」は1986年に初演であった。
おおよそ60回以上は公演したと思うが数えてない。数えるのはキライなので
あります。そして2001年、いよいよ独談「タイチャン」を世に問うて、
今後の日本の社会・文化に大きな影響をあたえる・・・こともない・・・・アア無情


  





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